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八郎潟、トンボロ、干拓:秋田県の地形図



秋田県大潟村の地形図

地形

地形図を見ると水田ばかりで不気味に思われるかもしれません。このように、水路が直行し、長方形の水田が規則正しく並ぶと、計画的に造られた農地だと考えることができます。

 

大規模な範囲で水路や街路が直行する地域は、事前に計画的に造られた地域が多く、北海道の屯田兵村や京都市街は計画的に造られた都市です。

 

この地形図の地域は、八郎潟(はちろうがた)という湖が干拓(かんたく)により陸地化され水田となった地域です。干拓とは遠浅の海や水深の浅い湖に堤防を築き、水を抜き取ることで陸地化することを意味します。

 

八郎潟は水深が浅い湖であったため、干拓に適した土地でした。なぜ、八郎潟の水深が浅いのか。それは八郎潟の形成過程を考えると理解できます。

 

八郎潟は男鹿半島の付け根に位置し、男鹿半島の先端には寒風山という山があります。実は、寒風山は本来離島でしたが、陸繋砂州(トンボロ)が伸びることによって本州と繋がりました。このとき、2本のトンボロが寒風山に向かって伸び、その間に海水が取り残されたところが八郎潟になったのです。

 

このように砂州で区切られて形成した湖を潟湖(せきこ)と呼びます。潟湖は砂が溜まって形成されるため、砂が堆積し水深が浅くなります。

 

干拓を行って陸地化しても、低地であることは変わりません。地形図中央の三角点から標高-3.9mであることが確認でき、海面下の低地で稲作が行われていることが分かります。

 

農業

なぜ、八郎潟は干拓されたのでしょう。それは八郎潟の工事が計画された1950年当時は第二次世界大戦後の食糧不足の時代でした。そのため、食糧不足を解消しようと全国各地で干拓が行われました。

 

八郎潟の干拓は非常に大規模で、その面積は約170万平方キロメートルにもなります。大規模な農業を行うと生産量が増えるだけでなく、労働生産性が高まるというメリットがあります。

 

労働生産性とは単位時間当たりの労働によって得られる生産量の大きさを意味します。例えば、同じ作業量で1年間に米を1000kg作る農家と2000kg作る農家は後者の方が労働生産性が高いという事になります。

 

労働生産性が高い農家は低い農家と比べて、一人当たりの収入も増加します。そのため、八郎潟の干拓地に全国から入植者を募集した所、多くの応募があり競争率が高くなりました。労働生産性の高い農業で稼ぎたいという夢を抱えて全国から人々が集まったのです。

 

なぜ、大規模な農業は労働生産性が高まるのでしょう。それは、大規模な農地には大規模な機械を導入でき作業が効率化するためです。田植え、稲刈り、脱穀、貯蔵など稲作を行うには大変な手間がかかり、これらを大型機械に任せることで効率化できます。

 

八郎潟干拓地では当時としては最新の機械が導入されました。乾燥や貯蓄を行うカントリーエレベーターや刈り取りを行うコンバインを利用できる環境は農家にとって最適なものでした。

 

減反政策

一般的に、物価は需要と供給によって決まります。つまり、米の値段は消費量と供給量によって変動することが分かります。

 

需要(米の消費者)が多く、供給(米の生産量)が少ない場合に米の値段は上昇し、需要(米の消費者)が少ない場合、供給(米の生産量)が多い場合に米の値段は減少します。

 

米の値段 需要(消費量) 供給(生産量)
上がる 多い 少ない
下がる 少ない 多い

 

食糧不足の時代、米の生産量が少ないため米価が上昇し、貧しい家庭は米を買うことが困難な状況に陥ってしまいます。そこで、政府は国民が平等に米を入手できるよう、すべての米を政府が買い取り、価格を調節して消費者に販売する食糧管理制度が1942年に始まりました。つまり、政府は農家から米を高く買い取り、消費者に安く売っていました。

 

食糧管理制度を開始されたとしても、米の生産量が少ないため、根本的な食糧不足は解消されません。そこで、1950年代は八郎潟の干拓の計画がなされるなど食糧増産に力が入れられました。

 

そして、食糧増産が実を結び、米の生産量が増えました。1977年に八郎潟干拓地が完成し、これからさらに米の生産量を増やそうとしましたが、この時代になると食の欧米化に伴い、米の消費が伸び悩み始めていました。

 

つまり、生産量が消費量を上回り、米が余ってしまう状況になったのです。政府は食糧管理制度のもと、すべての米を買い取るため、余った米(余剰米)も買い取ります。しかし、余剰米は消費者に売れず在庫を抱えることになりました。

 

この余剰米を減らすため政府は次の政策を行いました。
・自主流通米制度(1969年)
・減反政策(1970年ごろ)
など

 

自主流通米制度により農家は政府を通さず一部の米を販売できるようにしました。こうすることで政府が買い取る米を減らすことができました。ここで、もしすべての米を政府抜きで流通できるようにした場合、米の価格が急落するため農家は大打撃を受けてしまいます。そのため、政府によるコメの買取は続きました。

 

また、減反政策(げんたんせいさく)により、作付面積を減らし、米の生産量を減らすことに協力した農家に補助金が出されるようになりました。「減反」とは田畑を減らすことを意味します。

 

八郎潟の干拓が完了し、大規模な農業で大量に米を生産し、稼ぐことを考えていた入植者にとって、米の生産量を減らせという減反政策は大きな壁となりました。中には大きな借金を抱えてしまう農家もあり、国の政策に振り回された歴史があります。

 

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